シロップが今年の抱負として、
「“しない優しさ”の実行を目指す」と書いていた。
しない優しさ・・・
“する優しさ”は、それがどんなに大変なことでも、
しているという実感があれば
自分も喜びや満足感が持てるけど・・・
“しない優しさ”の場合、それらが得にくいだけでなく、
感情的にはしたい思いを堪えるという意味で
相手への信頼だったり、
時に相当な忍耐を要するモノであるような気が・・・?
こういうモノ、とハッキリ説明もしづらいし、
なんだか難しそうだよね。
ボクがそれを持ち合わせているかのように
シロップは書いてくれていたけれど、
なんかちょっと・・・違うかも・・・。
ボクは、誰かに何か“して欲しい”というより
“しないで欲しい”と望むことの方が多いタイプなので、
誰かにとって良かれと思う何かを考える時、
自然と“~しない”ことの方が思いつきやすいというだけで・・・
逆に言うと、
“する”方では、全く気が利かないってヤツ。
決してそんな、褒められた話ではないんだ。(;^_^A
“して欲しい”より“しないで欲しい”が多いなんて言うと、
人間関係で深入りを望まない一匹狼みたいに思われるかな。
でも、実際のボクの気質はその逆のように思うし、
一匹狼どころか、それこそおめでたく
「人類みな兄弟♪みな仲間♪」くらいに思っているからこそ、
“しないで欲しい”が増えるとも言えて・・・
求めるパーソナルスペースは
人よりやや広いかもしれないけど、
しないで欲しいことをしてくる人には即座に背を向けて
“する優しさ”をくれる人ばかりに寄っていく・・・
そういう人たちよりは、人間や、少なくとも社会には
深く関わっているんじゃないかとも思うけど。
それから、とても有り難いことにこれまで
人がくれる“する優しさ”にたくさん恵まれてきたから、
というところもあるのかも。
それは素直に感謝すべきことで、
慣れて当たり前のようになってしまっているのなら
ヤバイよね・・・
でも、
たくさん触れてきたからこそ
「それって本当に優しさ?」と思うモノの見分けも
少しはつくようになってきた。
優しさって、その場限りであれ、結果としてであれ、
受け取った人、その人自身の人生の中で
何らかの助け、足しとして
(無意識であれ)残っていくモノ。
与える方の思惑が絡んだ時点で濁ってくるから・・・
自分が“する”側である時も
懐疑的になりがちというか、
自信が持てなかったりするのかな。
“する”、“しない”、いずれにしても、
意識した時点で優しさって、難しくなるモノなのかもね。
“しない優しさ”について
ボクが考えを巡らせ、たどり着いた先には
『許す』という言葉があった。
“しない”、なのにヘンな気もするけど・・・
追及しない、糾弾しない、恨まない・・・
こうした難易度の高い“しない”の先の究極に
それがあるような。
一歩間違えればそれは『諦め』にもなりかねず、
そうなると、“優しさ”とはまた別モノに
なっていくのかもしれないけどね・・・。
(突き詰めて考えるのは、シロップに任せておこうヽ(▽⌒*))一方でボクが思う、究極の「する優しさ」は・・・
“いつも本気でそばにいること”・・・かなぁ。
その人の気持ち、その人の選択、その人の歩みに、
何をどうしたら少しでも
助けや足しになるようなことが出来るのかを
本気で考えながら、そばで見守っていること。
コレがダメなんだな、ボクは。
本気になればなるほど、
ついやり方に余計な口を出しちゃう。(ノ_-;)
(“する”方を考えながら
結局“しない”ことの方を重要視しているという。笑)でも、シロップが新たに“しない優しさ”を・・・と言うなら、
ボクは“する”方で、
ボクなりのコレを目指していこうかと思う。
言葉や態度で示す、わかりやすくて気の利いた
(そしてヒジョーに苦手分野の←)“する優しさ”の方も・・・
も、もちろん頑張る・・・けどね... ( ̄ー ̄;
カカオ